新型コロナウイルスの蔓延により在宅勤務・テレワークが広がっています。
そんな中,紙の決済書類等に押印が必要であるためにやむなく出社しているなどという声もあり,日本のハンコ文化が非効率性の象徴として注目されています。
ペーパレス化を志向しているはずのIT担当大臣が,紙を必要とするハンコ議連の会長であるなどと言った理解に苦しむ人選もまた,話題性を提供しているようです。
日本におけるハンコの文化的位置づけは置いておいて,本稿では,ハンコ・押印の法律的な位置づけについて考えていきたいと思います。
【目次(タップ可)】
紙に押された押印の法律的位置づけ
①押印の実体法的位置づけ
日本で適用される法律は,国家権力が人に対して何らかの義務付けをするものであっても(公法),私人間の権利を調整するものであっても(私法),要件と効果を記載することにより規定されています。
売買を例に要件・効果を説明すると,以下のとおりです。 「売買は,当事者の一方が財産権を相手方に移転することを約し,相手方これに対してその代金を支払うことを約することによって,その効力を生ずる。」(民法555条)とされています。 すなわち,一方が売ると言い,相手方が買うと言う「法律要件」だけで,売買契約が成立という「法律効果」が発生するとされています。
法律の構成が以上のとおりであるため,法律上何らかの効果を生み出そうとするための要件を考えるのに各種法律の文言を見てみればいいのですが,一定の例外的なものを除き,ほとんどの法律要件には,押印が必要とされていません。
私人間で一番典型的に押印をする場と思われる売買契約について見ても,その要件は売り約束と買い約束のみとされており,どれほど高額な物の売買であっても押印など必要とされていません(民法555条)。
それどころか,売買契約の成立に契約書の作成すら必要とされていません。
すなわち,日本では,何かの法律行為をしようとする際に,法律上(実体法上)ハンコが要求される場合はほとんどないのです。
では,なぜ契約書をはじめとする文書を作成する場合に,そこに押印をするのでしょうか。
②押印の手続法的位置づけ:本人確認とそれによる文書の真実性担保手段
実体法上はほとんど意味がないのですが,
文書にハンコが押す(押印がある)ということは,手続法上すなわち民事裁判上では,極めて重要な意味を持ってきます。
法律要件としてではなく,本人が意思表示をしたことを示す重要な証拠となるのです。
裁判では,前記の法律要件を基礎づける事実を主張し,それを証拠によって立証しなければならないのですが,私文書については,押印をもって立証が可能とされているからです。
以下に考え方を図示します(法律上,二段の推定といいます。難しい法理論ですので,結論以外は読み飛ばしていたければ結構です。)。
この理論によって,私文書に特定人が所持するハンコが押されている場合,反証がない限り,その文書がその特定人によって作成されたこと=特定人がその文書記載通りの意思を表示したことが推定されるのです。
その結果,契約書に押印があれば,売ります・買いますの意思表示をした・しなかったという問題を回避できることになります(押印ある契約書の有無で,裁判の勝敗が左右されます。)。
これが,押印の最も強い効力です。
押印に強力な証明力を与えた根拠は,かつては,ハンコは手彫りによる1点ものであり,その複製の困難さから本人特定手段として有用であったからです。
1点もののハンコを持っているのは本人に違いない,名前の横にそのハンコが押されている(押印がある)ということは本人が押したに違いない,とするとハンコが押された文書は本人の意思が現れたものであるに違いないとの推認が働くというものです。
押印にはこのような強い効力がありますので,弁護士目線で見ると,現行法の下では,契約書等の私文書に押印を省略するなど考えられません。
③押印の慣習上の位置づけ
なお,私文書の真正推定までの効力はありませんが,ハンコは,社内決済の際の責任の所在を明らかにするために押されたり,体裁を整えたりするために押されることもあります(白い紙に赤い印影は見栄えがします。)。
ハンコを押すということの問題点
もっとも,今日では,ハンコが事務手続きの電子化・効率化を阻害していると非難があり,ハンコ不要論が議論されています。
メールで受け取った文書を印刷し(P:プリントアウト),ハンコを押し(H),スキャンする(S)という無意味な風習が,日本型組織の労働生産性を大きく引き下げているという批判に基づくものです。
確かに,前記のとおり,ハンコは,①実体法上は必要とされておらず,②今日の技術ではハンコに代わる・ハンコを超える本人確認手段があり,③労働生産性を阻害していることから,あえて紙を作成してハンコを押すという作業にどれだけの意味があるのか疑問もあります。
実際,3Dプリンターで完全な複製が作成でき,また量販店ですら正確な印刻が可能な今日において,陰影の照合が本人確認と文書の真実性の担保となるか極めて強い疑問が生じています。
ハンコに代わる指紋認証,光彩・顔認証などの生体認証技術が当たり前になっていますので,本人の意思確認手段をハンコに委ねる時代は終わりに向かっているかもしれません。
【余談】 巷では,ハンコを廃止してサインで代替するという意見が多いのですが,筆跡鑑定はその精度に問題があり,また印鑑証明と同等の筆跡公証制度を作るのは大変なコストがかかるため,サインというのも問題が多いのです。 実際には,電子署名や生体認証を検討すべきなのかもしれませんが,汎用性や費用の点から新たな問題も生じ得ます。
いずれにせよ,色々な問題が山積するハンコ問題ですが,いずれにせよ,ハンコを別の手段で代替させるためには,前記の手続法上の位置づけ(二段の推定)を改定する必要がありますので,政治の力(立法による解決)が必要です。
今後の議論の進展が待たれます。
以上,新型コロナウイルスの蔓延に伴うハンコ不要論の高まりを見て,ハンコについて法律的に検討してみました。
参考にしてください。